そもそも瞑想とはなんだろう。
なんのために瞑想があるのだろうか。
正しい瞑想方法とは何か。
こうした根本的な問いに対して、僕が堂々と答えられるはずは元々ない。
瞑想の極意を得ているわけでもなく、
瞑想が悟りに導いてくれるならば、
その悟りを生きているわけでもない僕には、正々堂々とは答えられない。
けれども、問いかけ続けることがとても大切だと思う。
この根本的な問いをいつも問いかけてきて、もう何十年にもなっている。
そして時々、分かったような気分になって良い気になっている自分に気がついて、それはそれで楽しい。
瞑想に出会った10代の頃の方が、答えがわかっていた気になっていたのも面白い。
この問いに対して、最近考える答えは:
瞑想とは、余計なことを出来るだけしない状態に自分を置くこと。
瞑想とは、本来は自分を本来の意味で自由にするもの。
瞑想とは、どこまで続けても辿り着かない道のようなもの
いろんな瞑想法があるけれど、どの方法も正しくて、どれも正しくない。
瞑想は、心を込めて(でも込めすぎずに)積極的に何もしない時間。究極の受け身の積極的な時間。
そこに行くために、きっちりした瞑想方法が必要。
どこまで行ってもなんちゃって瞑想しか僕にはない。そして、それが僕には正解な感じがする。
それでも瞬間に何か全てが分かったような体験がやってくるのも瞑想だ。
瞑想が、何か人間を尊厳とか、我々を超えた何かと融合させてくれる方法の確かな方法の一つであることは
確かなようだ。
瞑想が僕の教師になってくれてから、あれこれ50年になる。
僕の人生の中では大変な歴史になる。
けれど人類の歴史を考えると瞬間にもならないほどだ。
でも瞑想が人間の知恵が育て、伝承してきた、
より生きるための輝く宝石であることは確かだと何度も感じてきた。
だから、僕は僕の人生の大きな部分を瞑想に費やしてきたし、これからもずうっとそうだ。
今回、壬寅(みずのえとら)にあたって、『三宝の瞑想』を紹介することにしました。
これは、実はかなり上級クラスの瞑想だけれど、楽しいし気づくことが沢山あります。
それぞれの瞑想方法に、ニュアンスと隠れた生きる哲学があると思う。
今回の三宝瞑想は、自分が立体曼荼羅になる基本的な瞑想でもある。
自分の中の三つの丹田(精気神)を再確認すること、
そして自分がもっと大きな力によって生かせれているという実感を得る瞑想です。
初心者の方でも、瞑想を日常的に行なっている人も、ぜひ気軽に参加ください。
上級のものを味わうことにも、大きな意味があると信じています。
もちろん現実に同じ場と時間を過ごすことが大切ですが、
社会や現実に合わせてオンラインで行うことにしました。
ぜひ参加ください。
新しい寅年は2月からです。
僕の新しい挑戦の一つです。