「祈り」とは? 信じているのか、いないのか?

祈りとは何だろうか 

分かっているようで、分からない

 

祈ったことがない人はいないのだろうと思う。

宗教的な行為と思われているけれど、必ずしも宗教を信じていないくて祈る。

僕は自分が、特に宗教的だとは思っていない。

 

瞑想をしていて、見えないもの、美しいもの、よくわからないもの、

などが好きだから、他人は僕をちょっと宗教的だと思う人がいると予想する。

それを否定もしないけれど、特に特定な神を信じているわけではない。

太極拳が大好きで、陰陽五行などにも興味があるけれど、特に道教を信じているわけでもない。

ヨガやインド哲学が好きだけれど、ヒンズー教を信仰しているわけでもない。

仏教や新道にも興味があるけれど、信じているわけでもない。

 

では、「祈りの力」を感じることがよくあるのは、何だろうか?

インドのガンジス川の毎晩のプージャと言われる祈りの場所にいると、

何か凄いものに圧倒される。

クリスマスイブには、例えばNYのセントパトリック教会にいたり、

イアリアのアシッジの聖フランシスコにいると、これも圧倒される何かに包まれる。

ベイルートでスーフィーの人たちのお祈りに入れてもらうと、これも涙が出てくるほどの何かがある。

ブッダガヤの大菩薩寺に夜、訪れると、これも震えたつ何かを感じる。

でも、だから何かをはっきりと信じているわけではない。

 

むしろ、瞑想をする時には、祈らないように心掛けている。

教える時にも、大体は祈る(prayer) と瞑想(meditation)は違うものなのだから。

この二つをあまり混ぜないように指導している。

祈りは明確な方向性があるもので、瞑想は出来るだけ方向性を消すのが大切だと考えているからだ。

 

ここのところ、僕自身、祈らざるを得ない状況があった。

普段は、祈ることはせずに、できることはして

あと結果は自分のコントロールにないものとしてサレンダーすると考えている。

のに、祈りたくなるというのは何か?

 

ほとんどは、祈りをする時には、祈りの内容が他人のことのように思える。

他の人のために祈る。出来るだけ良い方向でありように強く念じるということだ。

念じると通じるのかは分からないけれど、

きっと祈るか祈らないかで違いが出てくると信じているところがあるのは何故だろうか。

 

祈りが、生きることを豊かにできる要素はあると思う。

生きるを薄っぺらにしてしまう恐れもある。

様々な考えや思いが、「祈りとは?」の周りで飛び交う。

「祈り」をクリーンにできるようになれたら、時々は堂々と祈るのが良いのだと、思う。

2020-11-16T17:17:14+00:00 2020年11月16日|